2024年2月24日土曜日

ジャズに親しむ

私は1944年生まれである。 この年にT.モンクが Round Midnight を作曲し、M.デビスがセントルイスからニューヨークに来た年である。 勝手に何かの縁を感じている。 もし、この年にNYで生まれていればジャズ・ミュージシャンになっていただろうか、 そして黒人に生まれていれば薬漬けになって、ドラムをたたいているのか。 もしくは多くのジャズ・ミュージシャンのように若死にしていたのだろうか。 それにしても何故ジャズを知り好きになったのだろうか。 私が洋楽に親しんだのは、S盤アワーである。ラテン歌手であった帆足まり子さんがDJのアメリカのポップを主とするレコードを聴かせるラジオ番組で、小学生の頃(1950年代)であったと思うが、他に音楽番組はなかったように思う。 ペレス・プラードやザビアーク・ガートが紹介され、ラテン音楽の人気がでコーラス・グループのトリオロス・パンチョスのスタイルをまねたグループが乱立、後に歌謡曲に新しいスタイルを産むことになった。 当時ジャズを身近に聴けるところはなかったが、ナイトクラブやキャバレーにはフルバンドがいて、ダンス音楽やスイング・ジャズを演奏していた。 S盤アワーでもラテン音楽だけではなく、スイング・ジャズも取りあげていたと思う。 中学生になってアメリカを主とする洋楽ポピュラー音楽が押し寄せ、ラジオ番組も急増した。 が、この頃でも一般的にはアメリカのポピュラー音楽はなんでもジャズと呼んでいた人がいた。 中学生(1950年代後半)になって好きなレコードが欲しくなって、ラジオに接続するレコードプレィヤーとジャズのようなLPを一枚買ってもらった。 レコードプレィヤーを買ったのは、ラジオやアンプを組み立てるための部品を扱っていた店で、当時中学の無線部で真空管ラジオを組み立てていた。 真空管ラジオを組み立てると、次はアマチュア無線に進みより遠くの電波を受信する無線機派とアンプを組み立てるオーディオ派に別れる。私は、音楽を聴くようになって中学校を卒業した春休みに、真空管アンプを組み立て大学を卒業するまでそれでジャズのレコードを聴いていた。 ジャズにはまったのは、私がレコードプレィヤーを手に入れたので近所に住むジャズファンがベニー・グッドマンのレコードを貸してくれたからである。 そのお兄さんは大学のオーケストラでホルンを担当していたが、クラリネットネットが好きでベニー・グッドマンを聴いていた。 映画のサントラ盤ではなく、キャピトルのスタジオ録音でジャズのリズムやスイング感が整理されていた。1曲目のレッツダンスの一音目ですっかりとりこになって同じレコードを手に入れて何度も聴いたが、他にはルイ・アームストロングの10インチLPを一枚持っていただけである。従って、まだモダンジャズを知らなかったのである。 1959年失意の内?に高等学校に進学、ある日隣のクラスにいた映画部の部員が映画の前売り切符を売りに来た。 それが「JAZZ ON A SUMMER'S DAY」であった。なぜジャズの前売り券を私に売りに来たのか分からないが、その後その映画部員が片岡という歌舞伎の家系であることを教えられたが、何と現在の「片岡仁左衛門」である。 その映画は単なる記録映画ではない、今まで見たことのないニューポートの風景や1958年ジャズ・フェスの模様を見せてくれた。たった1曲の演奏だったがブルー・モンクが気に入ってそれ以来モダンジャズ、モンクのファンになった。 そこでいつも不思議に思うのは、何故ジャズが好きなったのかと言うことである。アメリカにも黒人音楽にも縁もない、成長段階で黒人の友人がいたわけでもない。 1957年以来、これはモンクがファイブ・スポットに長期出演をした頃である。2024年現在もジャズを聴いている。 オーディオの装置もある程度グレードアップして、今までの装置では聴けなかった音に感動している。 大学卒業後はボーナスの大半をレコードの収集に費やした、がNYのナイトクラブには行ったことがない。 日本人は欧米の真似ばかりしているという指摘に、故梅棹忠夫氏が日本人がそれらを受け入れることができる能力があった、というようなことを何処かで述べられていたようであるが、私には生まれながらのブルースの心、スイング感というものがあったのか?成長過程でそれを学んだとしたら、何処で?

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