2022年1月22日土曜日

JAZZ 喫茶

 帆足真理子S盤アワー、ベニーグッドマン物語(キャピトル・スタジオ録音)を通じてJAZZ に出会ったのですが、モダンジャズににめり込むきっかけは1958年のニューポートジャズフェスの映画である。

高校生の時のことであるが、何処で知ったのか忘れたが京都四条木屋町北入るにあった「ダウンビート」に出入りするようになった。小さな喫茶店で狭い厨房に小柄なマスターが一人で経営していた。勿論当時はステレオではなくモノラル、レコードプレィヤー二台、アンプ、大型のスピーカーボックスが席の奥に一台の設備で、入り口入ったところの右側にレコードジャケットが見えるようにディスプレイされていた。多分京都で一番古いJAZZ喫茶で場所も良かったのでバンドマンも出入りしていたが、ある日のこと元映画館であった河原町のキャバレーに出演していたドラマーが、「ボサノバのリズムはどうやったかな?」とか話しているのをきいて思わずガン見してしまったのも覚えている。

四条木屋町のダウンビートがいつできたのは知らないが、1960年代初めに三条朝日会館の横を東に入ったところに大きくなった新しいダウンビートが開店。一度行ってみたけれど、普通の喫茶店でJAZZも聴けなかったのでその後一度も行っていない。その内四条木屋町のダウンビートも閉店してしまった、

その少し前、河原町通りを東に入ったところに「ブルーノート」ができた。10人ほどで満席のカウンターだけの店で、「おしし」と呼ばれるママが一人でやっていた。確か妹さんが平安女学院の学生で、その友達からの話を誰かが聞いて知ったと思う。ブルーノートは現在、奈良に移転してライブハウスになっているらしい。

 http://kyoto-bluenote.jp/

 https://kyotojazzkissa-map.com/old-jazzkissa/blue-note/

 エピソード:京都ジャズ界に名を残す「オシシ」ママがオープン。 NYのジャズクラブBlue Noteが大阪進出に際して、既に存在していた「ブルーノート」へ挨拶と同じ店名を使用する許可を取りに来た。その時にママが、「ややこしいさかい、大阪てつけときや。うちは地名はついてへんで。」と言ったのは、有名な話。

その頃、河原町清荒神に「シャンクレール」ができた。立命館大学や府立医科大学の近くで多分学生の溜まり場だったのあろうが、私は一度も行ったことは無い。市電やバスで通り過ぎて知っていたのですが、わざわざ途中下車する積もりはなっかた。確か京都にホレス・シルバーとクリス・コナーが来たときにオーナーらしき女性が花束を持ってステージに現れたのですが、古いジャズファンには無視されていたよう。

もういっけん、名前を忘れたのですが四条西木屋町をダウンビートとは反対側南には行ったところの2階にバンドマンが集まる喫茶店があった。知り合いのドラマーがホステスさんと待ち合わせをいたが....

その先に、今でも?ジャズではないのですが「フランソア」があって、ここは昔のままのすがた。

大学に入って大阪に通い出すと、難波・梅田のバンビが主な出入り先になったが、その頃にはステレオになっていた。難波店にはJBLの大きなスピーカー があったが広いフロアーでJAZZファンでもない沢山の人も入っていた。JBLの大きなスピーカーは入り口正面に鎮座していたが、ゆっくりJAZZを聴くためには一人で奥の席にいた。梅田のバンビは床面積はあまり広くなく何階かあったが、一般の人も多かった。

梅田には他にも阪急東通りを中心に他にも小さな喫茶店があったが忘れてしまった。レコード店がいくつかあったのでよくうろついていた。

高校生の時、何度か東京に行くことがあって新宿キーヨに出入りするようになった。ここは米軍の兵隊も来ていたようで賑やかな店であった。新宿には何軒かのジャズ喫茶があり、中でも「木馬」は図書館のように静かな店で一度しか行かなかった。他にも何軒かあって現在でも同じ屋号でバーをやっているところがあるらし。アメリカから(外タレ)ジャズマンが来るようになって、彼らが言うには日本のお客さんは「聞いてくれる」でした。レコードにもナイトクラブの様子がうかがえる録音がありますが、ワイワイがやがや、必ずしも音楽を真剣に聴いているわけでもなさそうです。まあ、我々は演奏会場で高い入場料金を払っているのですから聴きますが、NYでの彼らの仕事場はナイトクラブですから仕方の無いことです。まあ、ジャズなんてかしこまって聴くものじゃないから賑やかな方がいい。

The Thelonious Monk Quartet – Thelonious Monk In Tokyo 1970

Japan Toshiba/Express regular issue, black vynil
Live recording from the 2nd Annual Newport Jazz Festival In Japan, on Oct. 4th, 1970.
Recorded live at Koseinenkin Hall in Tokyo.


2022年1月20日木曜日

楽器との出会い

 故阿原道正さんは、当時京都府立医科大学の学生でオーケストラ部ホルン奏者でした。夏休みに誰も使っていない楽器があるので休み中使って良いとトローンボーンを貸してくれました。それが楽器を手にした初めての経験で、不思議なことにそれをきっかけにほとんどの楽器の名前を覚えてオーケストラで今音が出ている楽器もわかるようになりました。

高等学校に入ってブラスバンドに入りたかったのですが、新設の学校であったためか部がありませんでした。 2年生になってブラスバンドを立ち上げる準備の集合がかかって集まってはみたものの、中古楽器がいくつかならべられているだけで立ち消えになりました。しかし、そこにいたトロ−ンボーンの先輩がリズム感覚を養うためにドラムのバチを買ってきて机を叩け、というアドバイスをくれました。当時ドラムのバチは¥100ほどであったので休み時間にも机を叩いていたのですが、レコードにあわせて自分のベットの鉄枠をシンバル代わりに叩いてそれが楽しくなってドラムに興味を持つようになりました。

3年生になって、1年生の時のクラスメイトであった木村さん(多摩美に進学、グラフィックデザイナーになったはず)がクラリネットを持って我が家に来て吹いて聴かせてくれました。良い感じだったのでやはり1年生のクラスメイトであった竹越さんに声おをかけて最後の学祭でJAZZバンドを結成して演奏。

竹越さんは中学校時からブラスバンドでトランペットを吹いていたのですが、当時は本格的にJAZZピアノへの道を進んでいました。が、京都外大のブラスバンド部の面倒を見ていて初めての舞台を目指して特訓中でした。もう一人のテナーサックス奏者の木村さんと高校三年生が大学三年生の面倒を見ていたのです。この二人は後々京都外大に進学、JAZZ専門の部活を立ち上げて活躍。竹越さんはトリオを引き連れて大学対抗バンド合戦JAZZ部門最優秀賞を取りました。その時の総合一位はやはり京都外大軽音楽部ラテントリオでした。

京外大ブラスバンドの練習を見に行ったときのことですが、小太鼓が居ないので「お前ちょっと叩け」ということで参加することになって、外大のブラスバンドの初舞台にも参加しました。そこでのできごとですが、ドラムのバチの合図で曲が始まるように練習を重ねてきたのですが、1曲目に誰も音が出ませんでした。一瞬私もどうすることもできないし団長にもにらまれるし、こまっていたところ竹越さんが前に出て指揮をして無事始まりました。後そのことを竹越さんに話したら「ようあることや」と平然としていたのを見て彼のすごさを感じました。

ということで、高校生の時にドラムスのはまり初舞台は京外大のブラスバンド、そしてJAZZバンドでは当時の祇園会館(現吉本花月?)でのピアノ、テナーサックス、クラリネット、ドラムスのカルテット。


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