2022年2月27日日曜日

FURUTECH ADL RCAケーブル 同軸構造 ALPHA-LINE1

 

これはお買い得、RCAジャックだけでもこのお値段はすごい。

でも、クラシック向きです。ジャズやポップ、特に電気楽器には不向きです。

2022年2月21日月曜日

DSD/PCM ハイレゾ音源再生対応CDプレーヤー PD-501HR(生産終了)

 

HRdsdデータ 5.6MHzまでのdsfやdsdiffフォーマットに対応

 dsdデータ 5.6MHz ディスクの再生ができる高価でないディスクプレィヤーではあるが、ヘッドフォンジャックがないのが難。後続機種にも付いていないよう。


FURUTECH ヘッドホンアンプ・DAC ADL GT40α

 

自作のHR・DVDディスクの再生をするため、手頃な機材を購入(TEAC PD-501HR)したがヘッドフォンジャックがない。手ごろな価格?でこれを手に入れたがレコードプレィヤーに接続MM.MCの切り替えも可能。USBでPCに送って取り入れることもできる優れもの。ただ、スルーでアンプに接続したところ音質が柔らかくてクラシック向け?適当なケーブルが手元に無かったので借り接続中。

2022年2月13日日曜日

T.Monk, M.Davis, J.Coltrane

 はじめてジャズにはまったきっかけは、近所に住んでいた故阿原道正さんが貸してくれたキャピトル・スタジオ録音盤の「ベニーグッドマン物語」である。このレコードを気に入って同じ盤を手に入れて何度も聴いた。とはいえ、他にはスイングジャズのレコードは買わなかったし、他は寺元隆さんが貸してくれた「SUNDAY JAZZ COBCERT」鈴木彰治とリズムエースのみ。高校生になってからであるが、映画「サッチモ大使」を見てルイアームストロングの10インチLPを買ったが、ニューオリンズ・ジャズもこれ一枚のみ。映画「JAZZ ON A SUMMER'S DAY」を見てからは、モダンジャズ、T.Monk一辺倒。

それからはレコード店を見つけると、ジャズコーナーにモンクのバーゲン・レコードをあさりに行っていた。そのころマイルス・デビスやMJQが人気であったが、 ラジオやジャズ喫茶で聴くのみ。M.Dのレコードを初めて買ったのは「Round Midnight」。そのころのM.Dは陰気くさくて好きになれなかった。このレコードも2,3回聴いて近くに住んでいた木崎君と他のレコードと交換してしまった。M.Dを聴くようになったのは、リズムセクションにハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウイリアムスが加わってからである。J.Cにいったては大学生になってからのことでマッコイ・タイナー、ジミー・ギャリソン、エンビン・ジョーンズらが加わったメンバーのものでインパルス・レコードが主である。きっかけは、当時京都外国語大学の学生でありながら、もうプロとしてナイトクラブに自分のグループを率いて出演していた竹越君がメンバーのTsxプレィヤーがあまり他のミュージシャンの音楽を聴いていない、という指摘を聞いて今まで聴いていなかったミュージシャンを聴いてみようと思い初めて手に入れたのが、インパルス「JOHN COLTRANE QUARTET」。これが”当たり”だった。ここにはポップな曲は収録されてはいないが、後に「JOHN COLTRANE QUARTET PLAYS」や「SELFLESSNESS」も楽しんだ。 ジャズ喫茶やラジオで聴いたなじみのレコードも後に何枚か買ったが、何度かの引っ越しで処分、現在の住居でも一度ほとんどのもを処分して以前買えなかったレコードを手に入れたが、あまり楽しめていない。近々処分の積もりである。「セロニアス・モンク 独創のジャズ物語」の訳者小田中 裕次さんのブログをみて、主にモンク死後モンク作曲の曲を演奏しているレコードをかなり聴いてみたが、まだその中から三人以外の好きなミュージシャンが見つからないが、チック・コリアやキース・ジャレットが無難かと思っているが、世代的には私と同じでもっと若いミュージシャンが見つからないかと考えている。

さて主に上の三人のレコードコレクションをしていたのですが、これらのミュージシャンのレコードを買うときには何も確認をしないで、持ち帰って針を下ろすのが楽しみでした。というのは、中身?を確認しなくても期待が外れることがなかった。モンクは往年マンネリと言われてはいたが、私は楽しんでいた。ただ、他のミュージシャンのレコードであれば”あの曲が入ったレコード”でだいたいわかったのですが、モンクのレコードは同じ曲が何度も録音収録されていてそれではわからない。が、それでもどれを買っても”スカ”がない。コードの理論がわかっていれば、もっと深い楽しみ方があったと思うが。彼らの音楽活動は、発展的な直線上にあったと感じるので、変化があってもそれは理解ができる。M.Dが電気楽器を使うようになったときも、突然ではなく連続的な線上にあったと思っている。ただ、チック・コリアが加わったロスト・クインテットがフリー・ジャズに向かいかけたのはあまり好きではありませんでしたがすぐ修正されたように思う。ただ、学生時代に電気楽器を経験していたし子供の頃から電気は好きだったので、アレルギーはなかった。J.Cが神がかったフリーに向かったのは好きになれず、M.T、J.G、E.Jのカルテット以後はほとんど聴いていない。ブレのない発展的な課程がある音楽活動は芸術家としての基本的姿勢と思う。彼らをアーティスト、またはポップ・アーティストと呼べると思う。

ジャズ・ミュージシャンでありながらヒット曲を持っている人がいるが、流行歌をねらうようではアーティストにはなれない。M.Dが電気楽器を使うようになって今までのファンには良く思われなかったようであるが、聴かれなくなった音楽ではなくて若者が聴ける新しい音楽を作り出したと思う。自然発生的にに生まれてきた黒人音楽に、初めて意図的に創り出された音楽ができたわけである。J.Cはマイフェイボリット・シングをジャズ曲としてヒットさせたが初期からアバンギャルドまでの演奏を聴いてみると、彼の意図ががわかるような気がする。

私のコレクションの中にはあまりヒット曲はないが、聴く方の態度としても良ったと思っている。芸術家としての彼らを尊敬する。

2022年2月11日金曜日

真空管ラジオからオーディオ

 中学校に入学して早速無線部に入部。理科室で電気マニアの教頭服部先生と理科担当の横井先生の指導を受けて真空管ラジオをつくったが、配線の美しさにも気付いた。まだアンプのことも知らなかったのでこのラジオにレコードプレィヤーを接続、音楽を聴きだしたがまだジャズを知らなかった。このラジオで夜中になると外国の放送が聴けたので、モスクワ放送、平壌放送(日本語)やわけの分からない外国語(朝鮮語、中国語)を聴いたり、東京ニッポン放送、米軍FENを楽しんだ。FENは夜中の24時を過ぎたとたんグッド・モーニングとコールするのが驚きだった。その前に帆足まり子さんのS盤アワーを聴いていたので、音楽に親しむようになってきた。元々アマチュア無線で外国人と交信している人がやっていたのであるが、受信レポートを送るとベリーカードと言われていた記念のカードが送られてきた。モスクワ放送は、一度送るとそおの年のクリスマスカードが送られてきた。北京放送や平壌放送を聴いているのがばれたら就職がないかも、ベリーカードも隠した方が良い、と大学生だった西野さんが言ってた。その頃共産党員には就職がなかったらしい。

真空管ラジオを何台つくったのか覚えていないが、卒業前の春休みにオーディオ用のアンプを組み立てた。勿論ジャズを聴くためにではあるが、まだモダン・ジャズを知らなかった。スピーカーは「音響」製の何を買ったのか忘れたが30cmは買えなかった、レコードプレィヤーは市販のビクター製モノラル。スピーカーボックスは本棚を利用、丸い穴をあけるのに一苦労したが、次からは木工所の電動糸鋸であけてもらった。トランス類は「サンスイ」、真空管はミニチュア菅で「東芝マツダ」。ボリユームにも専門メィカーがあった、「コスモス」。電解コンデンサーは「日本ケミカルコンデンサー」。ラジオには「アルプス」のバリコン、コイルは「トリオ」。トリオはケンウッドを経て消滅?アキュフェーズがトリオの創業者による高級オーディオ器機のメイカーである。クラシック系のスピーカーはパイオニアで、私は音響。

ラジオやアンプを組み立てるための部品は京都河原町三条朝日会館の裏にあったアサヒ無線(後にダウンビートができた近所)か四条寺町通りを南に入った電気屋街で買った。このアンプは一回り小さいながら、大型のアンプと同じ形の電源・出力トランス、筒状のコンデンサー、そして4,5本のミニチュア管が四角いシャーシーの上に並んで、夜になると真空管の光がきれいだった。シャーシーも市販のあらかじめ真空管ソケットなどの穴が開けられたものではなく、全て自分で寸法取りをして穴をあけた。アンプの部品の形状は丸いものが多かった、トランスのように四角いものでもボルトやビスで固定するので基本は全て丸である。したがって、シャシーにはそれらの中心点をマークしてドリルやパンチで穴を開けるのである。中学校の家庭科で3面図を習ったことがあるが、外形を基本に寸法取りをするするものとは違うのである。このようなことは学校では教えられなかった。

余談。今から思うと裕福な家庭でもないのにこの資金をよくも集めたものだが、この作業を通じて変なことが起こるようになった。ある日のことアンプの部品を調達しにアサヒ無線で買い物をしたのだが、手元に1,000円札を用意していたのであるが500円以下であったので払うときに500円札に替えた。レジの係が500円札を確認しないままでおつりをくれたので家に帰ってから財布の中身を確かめたら多い。当時は全て札だったのであまり確かめないと、このようなことになったのである。ちなみに高校を卒業した頃アサヒ無線にいったらつぶれていた(もう時効なので私のせいではありません)。それからちょくちょくお釣りを得することが起こった、券売機でもお釣りが余計に出てきたりしたのであるが、結婚してからこんなことが時々あると家内に話していたら、はじめて一緒に外国へ出かけてTCで精算したときのこと、やはり思ったより安価であったため前に出していたTCより額面の低いもので精算したら、お釣りが余計にきた。ほらね、こんなことあるのよと二人で大笑い。現在ではお釣りを出す前にレジにお金を磁石ではり付けるなどして間違いが起こらない。が、私が住んでいる地域では交通費の援助があって交換券で希望の鉄道会社のプリペイドカードに交換してくれたのだが、それがかなり薄いプラで何度も枚数を数えていたのであるが、ある年のこと一枚多くくれた。私のせいではないと思うが、最近はこの制度が無くなった。

当時の私の知識と資金をつぎ込んだこのアンプを大学を卒業して移転するまで10年ほど使用、モノラルだったので廃棄した。後で思ったのだが同じアンプをもう一台造ればステレオになったのに。大学を卒業してしばらくして、ゼミ友の牧さんがトリオのトランジスター・アンプを購入した。私も真似をして同じアンプとあこがれだった音響の30cmスピーカー、そしてsuzukiのレコード・プレィヤーを大阪の電気屋街日本橋で購入、しばらくして牧さんがアカイのオープンリール・テープデッキを購入。私はTEACのテープデッキを購入。

トリオのアンプの後は、埼玉県で造っている小さな真空管アンプ(トライオード)を購入したが、現在の住居に移転してから退職金をつぎ込んであこがれの機材を手に入れた。Luxman の真空管アンプ。JBLのスピーカー、ドイツ製のレコードプレイヤー、そしてTEACとLuxmanのコンバーターでPCに接続、ハイレゾで楽しんでいる。裕福なオーディオマニアは一機材あたり¥1,000,000もするようなセットではあるが、それに比べれば中の下くらいか。初めて真空管ラジオを組み立ててから50年あまり、それでも満足している。

2022年2月10日木曜日

電気からゲルマニュウム・ラジオ

 電気に興味を持ったのはなぜか覚えていないが小学校三年生の時のこと、姉(当時小6)が持っていた理科の教科書の電気に関する図を自分のノートに描き写していた。それを何かの機会に見た(自分から見せるとかアピールはしない性格)担任の小田垣弘子先生がびっくりして、「福田君のノート凄いよみんな見てみ」と言って何日間か展示した。勉強はできない・しない?子だったので他に褒めることが無かったのでそういうことになったと思うが、その頃には電気に興味を持ったのは確かである。学年混合必修クラブ?で後輩がコードの+と−を一つにまとめて配線しているのを見て、「そんなころとしたらショートして家中の電気消えてしまう」と教えたのを覚えている。

鉄道模型にも興味を持ったので模型クラブに入ったが資金が無く(裕福では無かった)、模型用の木(ヒノキ棒)でポイント部分を作ったりしていた。家の裏に国鉄(現JR)が通っていたので、線路や信号機が常に視界の中にあった。その前になるが 朝鮮動乱で、アメリカ軍が戦車などの修理で大久保の基地へ兵器を運んでいた。その頃国鉄奈良線は単線でうちの裏には上り下りの待避線があったり、日通の大きな営業所があり荷物の積み込みや貨車の入れ替えのための引き込み線もあった。そこで蒸気機関車の運転室内を見せてもらったり、米軍と兵器を間近に見ることもあった。決してギブ ミー チョレートとは言ってない!現在龍谷大のキャンパスは元米軍の基地であったが、通信基地で大きなアンテナが接地されていた。戦闘部隊ではなかったので、兵隊さんはおとなしい人ばかりであったが時たま派手なスカジャンを着た若い軍人を見かた。だがスカジャンが日本製だとは夢にも思ってもみなかった。ある日のことおもての通りをあるいていたら、酔っ払った米人が声をかけてきてピストルをくれた。オモチャですよ!

当時奈良電鉄(現近鉄)が京阪丹波橋駅と同じホームを使っていたが、奈良電で日本人用と米軍用をチェーンで仕切った車両を見かけたことがある。それは一度だけのことだったが子供心にショックを受けたのか、後々ジャズを通じて米国の黒人差別を知ったときに思い出した。

理科のノートに電気関係の図を写し撮っていた頃?、近所一帯の電気メーター交換工事があって腰道具を携えた人たちが行き来するようになった。うちの番になってやってきた人が最近分かったのですが13歳年上のイケメンのお兄さんで、電気に興味を持ちだした頃で作業をしているのが珍しかったこともあって、間近に一部始終を見ていて仲良くなった。我が家の工事が終わった後どういううように仲良くなったのか忘れてしまったが、工事用の自転車の後ろに乗てもらって七条にあった寺元電気工事の家にも連れていってもらった。職人さんが沢山いたり資材や道具を身近に見てうれしくなって、その後はバスに乗って行けることが分かって一人で時々伺うようになり、二度ほど帰りのバスに乗り遅れて夕食をご馳走になったが、大人に混じって箱膳?で食べ今までに無い経験をした。

鉱石ラジオやゲルマニューム・ラジオに興味を持って誰に習ったのか覚えてはいないが、はじめてつくったもの(調子が良くなかった?)を持って寺元電気工事 へ行った時ちょうど職人さん達が帰ってきた時間でみんながオーと寄ってきた、「これは分からんな、てーちゃん呼んできて」と先に帰っていた近所に住んでいた職人さんを呼んでくれたが、この時電気にも専門分野があることが分かった。私の父親はサラリーマンだったので、うちには何も無かったのであるがどういうわけか道具類が他の家よりはあった。と言っても釘、金槌、のこぎり、ペンチ、マイナスドライバーくらい。ハンダごてはなかったので多分自分で探して買ったのだと思うが、近所の電気屋さんにもなかったのに、何処で探したのか?私がラジオを作り出したのをみて寺元さんがペンチ、ラジオペンチ、ニッパー、ドライバーをくれた。プロが使う道具をもらったので、大変喜んで現在でもニッパーの他は手元にある。

小学校の高学年になったっころ近所に住む木崎しょうぞう君と、電気つながりの友達になった。彼とはなぜつながったのかは覚えていないが、近くにあったブリキ屋(トユ屋)さんにも、そのころ何を造っていたのか切れっ端をもらいにいっていた。木崎君はどこからか小さな電気友を探してはゲルマニュウムラジオの修理を私に頼んできてそれを配達させていた。その頃には何故か向かいにあった西野湯のお兄さんとも知り合いになって部屋に出入りするようになった。母屋とは別棟で出入り口も別だったので入りやすかったのか。西野明さんは当時立命館大学工学部の学生で綺麗にかかれたモーターの手描き製図が貼られていたが、音楽にはあまり興味が無かったようだがS盤のレコード蓄音機でウエスタン映画の曲を聴かしてくれた。 西野明さんとは現在音信不明。

 

 


2022年2月9日水曜日

ハイカラー・クラブ・プレゼンツ“サンデイ・ジャズ・コンサート”

 

SUNDAY JAZZ COBCERT





 

渡辺弘とスターダスターズ, 鈴木章治とリズム・エース, 渡辺晋とシックス・ジョーンズ, 原信夫とシャープス・アンド・フラッツ, 海老原啓一郎, 江利チエミ ( Hiroshi Watanabe And Stardusters, Shoji Suzuki And The Rhythm Aces, Shin Watanabe & Six Joes, Nobuo Hara And His Sharps & Flats, Keiichiroh Ebihara, Chiemi Eri )


 

 

 

 

 

ババロア ( Babaroa )

馬子歌( Song Of Pack - Horse Man )

Air Mail Special

Memories Of You

Rose Room

Man In The Raincoat

Stardust

Mambo De Flute

Who Parks The Car?

Floor Show


2022年2月6日日曜日

JAZZ友

 JAZZにはまったきっかけは、中学生の時近所に住んでられた故阿原道正さんが貸してくれた「ベニーグッドマン物語」のレコード。そしてモダンジャズ、セロニアス・モンクにはまったのは高校生一年生の時見た1958年Newport Jazz Festival の映画「JAZZ ON A SUMMER'S DAY」を見てである。

なお、この時の映画は二本立てで同時に「黒いオルフェ」が上映され、日本に初めてボサノバが流れた。

その頃近所に住む電気・ラジオの友人木崎しょうぞう君もJazzも聴きだしていて、私は彼に「ジャズはダンモや」と言ったらしい。木崎君(現在音信不通)の向かいに藤尾家があって、男兄弟の二人が伏見高校の出身でジャズ・ミュージシャンであった。お兄さんがピアニストで東京ユニオンに一時在籍、私より一歳上のまさみさんはトロンボーン奏者であった。藤尾家には出入りしていなかったが、感じの良いご両親を時々見かけた。お父さんは会社員ではあったが、バイオリンを嗜む人でおしゃれな感じ。お母さんも当時息子をジャズ・ミュージシャンに育てたくらいなので、感じの良い人だった。

阿原さんのおかげでクラリネットにも親しむようになったのであるが、小学生から中学生にかけて仲よくしていただいた電気工事をされていた寺元隆さんが貸してくれた、鈴木章次のレコード、エアメイル・スペシャルもよく聴きいた。

伏見高校(現伏見工業高校)のブラスバンドは結構有名で、スイングジャズも演奏できた。ある夏のこと、野球部の予選の応援でジャズを演奏したところ、京都の高野連?から高校生らしい演奏をしろというクレームがあったらしい。当時のブラスバンドは私が京都外大のブラスバンドを手伝ったときも戦勝国・アメリカの軍楽隊の曲を敗戦国が演奏していたのである。もし、伏見高校に進学して藤尾家に出入りしていたら間違いなくナイトクラブの太鼓叩きになっていたと思う。でも、ドラムに出会ったのは高校生になってからですから・・・・

小中学校、特に三年生の時友達が石原裕次郎や映画のことを話していたが興味が全く無く、音楽のことも話すことも無かった。が、そのずっと前に寺元さんに連れられて、ワゴンマスターと小坂一也のステージを見ていた。彼はエルビスプレスリーの曲を日本語で歌っていて、若い女性に騒がれた最初のアイドルであった。

趣味が広がったのは高校生になってからである。高校一年生の時には中学校のブラスバンドでトランペットを吹いていた故竹越直樹君がクラスメイトで、コーラス部でも一緒だったので仲良くなった。その頃彼は親戚の叔母さんにピアノを習いだしていたが、ジャズの話をした覚えはあまり無い。クリス・コナーとホレス・シルバーが京都でコンサートを開いて、ジャズの生を初めて聴いた。その時会場でクラスメイトであった、木村君に出会った。多分それから親しくなったが、彼とジャズの話をした覚えもあまり無い。お母さんが京都三条河原町を西へ入ったところに、ブティック・モンを経営されていたが、今は無くなっているらしく彼の近況を知る手がかりが無い。

二年生になって、竹越君や木村君とは別のクラスになったが、新たに故田口ひろき君とクラスメイトになってジャズ友になった。彼にはジャズが好きの兄がいてアンプや大きなスピーカーボックスももっていた。当時私が持っていなかった人気のマイルス・デビスやMJQのレコードを聴かせてもらった。田口君の誘いでアメリカ文化センターで月一で開かれていたジャズレコードを聴く会(レコード・コンサート)に行くようになり、三条京阪駅前にあったナイトクラブ・ベラミにヘレンメリル(ピアノ八木正夫)を聴きにも行った。もちろん夜のことではなく、ジャズ愛好団体が主催をして入場無料、但し会員になって初回の会費を払ったがその後何のお知らせも無く会の交流は無かった。田口君の誘いでいろんなところにいったが、1964年の円山公園野外音楽場でのジャズライブにも出かけた。まだ小遣いに制限があったので、いい席を取ることができなかったが、途中で夕立がきて空いた前の席に移動できた。

三年生のいつだったか、再びクラスメイトになった木村君がクラリネットを持って家に来た。結構上手に吹いて聴かせてくれたので、早速竹越君に声をかけて高校生最後の学祭でジャズを演奏した。多分週一で練習したと思うが竹越君とは外大のブラスバンドの練習でもしばらく一緒だった。

大学生になってからのことであるが、高校二年生のクラスメイトであった小笠原君が車で通りかかって「福田君が聴けと言ったジャズを聴いているよ」と言ってくれたが、大学生の頃とか卒業してからもそのようなこと言っていたらしく、ジャズを聴いているよという友達や後輩に出会った。

高校を卒業して、しばらくお茶の水の美術学校・画塾に通っていたが、昼間有楽町の「不二家」で ジャズ演奏を時々楽しみました。猪俣猛とウエストライナーズの出演をよく聴きに行った。

残念ながら、田口君は私が大学を卒業する前、竹越君はしばらく連絡がつかなくて京都外大同窓会から連絡をしてもらったが、その次の年か65歳くらいで亡くなってしまった。阿原さんも2,3年前に亡くなった。

ジャズではないのですが、はじめて故小泉文夫監修のアラブの民族音楽レコードを聴かせてくれたのが、大阪芸大建築学科の故小林康成先生で、それからNHKFMで放送されていた小泉文夫「世界の民族音楽」を毎週録音して聴くようになった。卒業ゼミの工芸デザインの故田島信先生はJコルトレーンが亡くなったのをおしえてくれました。

今思えば、ジャズとオーディオも関係が深かった。

T.Monk を知る